私を育てたのは、下町の町工場でした

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私は東京都墨田区で生まれました。
2歳の頃、荒川区町屋へ引っ越しました。

私の家は少し変わった建物でした。

1階が町工場。
2階が事務所。
3階が住居。

父が小さな町工場を経営していたからです。

家にはいつも従業員の方が出入りしていて、とても賑やかでした。
子どもだった私の周りには、いつも大人がいました。

家の近くには都電荒川線が走っていて、徒歩1分ほど。
時間があれば、ただ都電を眺めて過ごしていました。

町屋という街は、いわゆる下町でした。
路地に入ると迷路のような細い道があり、近所の人たちの距離もとても近い。

今振り返ると、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のような街だったと思います。

その後、小学校に上がる前に葛飾区堀切へ引っ越しました。
堀切では小学校から専門学校まで過ごしました。

家から自転車で5分ほど走ると荒川の河川敷があり、放課後は友達と野球をしていました。

ただ、子どもの頃の私は今とは違い、とても引っ込み思案でした。

昔の写真を見ると、いつも誰かの後ろに隠れているような子どもです。
自己主張をすることも少なく、一歩も二歩も下がって周りを見ているような性格でした。

そんな私が、子どもの頃からたくさん話をしてきたのが「大人たち」でした。

父の工場では、いろいろな人が働いていました。

外国から来て働いている方もいました。
日本で一生懸命働き、家族へ仕送りをしていました。

「自分は質素な生活でいい。
家族が豊かに暮らせればそれでいい」

そんな話を聞いたことがあります。

その方のアパートに遊びに行ったこともありますが、家具はほとんどなく、寝るためだけのような部屋でした。

それでも、日本語を一生懸命覚え、黙々と働いていました。

また、過去にいろいろな事情を抱えていた人も働いていました。

背中に絵が描かれている人。
指がない人。

今で言えば、反社会的と言われる世界から抜け出し、社会に戻ってきた人たちです。

ただ、一般社会で生きていくことは簡単ではないと聞きました。

父は夜に飲みに出かけることが多かったのですが、仕事のない人を見つけると声をかけ、工場で働かせることがありました。

生活に困っている人を見つけると、放っておけない人でした。

子どもながらに驚くこともありましたが、
困っている人を助けようとする父の姿は、今でも強く記憶に残っています。

振り返ると、私は子どもよりも
大人と話して育った時間の方が長かったのかもしれません。

いろいろな人生がある。
いろいろな事情を抱えた人がいる。

それを、子どもの頃から自然と知りました。

その経験が、今の私の考え方に大きく影響しているのだと思います。

草加市議会議員
斉藤雄二

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